地の塩、世の光

新約では地の塩という比喩がある。イエスはそんな生き方を信ずるものに教えたというよりも、本質を提示することだった。要するに、クリスチャンは、地の塩や世の光のようで生きることは望まれる。

これは、明日の主日学校の準備だ。

塩は主に以下の機能を持つ。

まずは味を改善すること。ヨブ記6章6節には言及される。 量によって、生命体に影響する。塩不足なら命に危険がある。 しかし、過剰なら、脱水症にかかって、最悪の場合は死ぬ。食べ物の腐敗を防ぐために塩を用いて、実は大量な塩で微生物に対して活かせない環境になるという手段だ。そのため、契約で破ることのないという意味がある。また、旧約の生贄には、塩の要求があった。とにかく、塩は変わらずに存続することというイメージが深く見える。

また、イエスの時代は、主に岩塩を用いた。そんな塩は、純粋な塩でなく、他の鉱物も混ぜていて、湿気に塩気だけなくなり、最後に塩気のない部分が残ることがある。その岩塩の塊をなめて塩気を感じることは普通だった。

クリスチャンは岩塩で、神による命はその塩気。その塩気があるこそ、塩は塩であり、その地で、平和を作り出せる。イエスは、火が塩として人を漬けることをおっしゃった。火のような裁きがなければ、人は塩気を受け入れることができない。誠に神に照らされ、罪を悔い改め、生まれ変わる人のみは、誠のクリスチャンになり、その塩なす命を有する。塩気が失うことがある。しかし、岩塩はまた岩塩だ。人間はアダムの一族で、本質は罪人だ。神の救いで、塩気が持ち、そして誠の塩になる。

世の光として、まず、クリスチャンは世に見える。そして、世の暗さを照らす。

光はなに。電磁波の一種で、エネルギーも持っていて、目の神経に刺激を与えて画面を脳内で生成する。

『新約聖書』ではイエスにより「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語られる。クリスチャンは光ということは、ほかなくイエスの命が持つということだ。その光源は神の命はしかない。

光の特徴として、隠されることがある。世には光を拒否するものはたくさんあって、それは闇だ。それに対し、よく光出し照らさせる、灯火のように隠すではなく人に見せる。

追伸、聖書に於ける塩

創世記/ 19章 26節

ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。

命を絶つ裁きの象徴であると見える。

出エジプト記/ 30章 35節

香を作りなさい。すなわち、香料師の混ぜ合わせ方に従ってよく混ぜ合わせた、純粋な、聖なる香を作る。

ここで口語訳では「あなたはこれをもって香、すなわち香料をつくるわざにしたがって薫香を造り、塩を加え、純にして聖なる物としなさい。」と訳し、混ぜ合わせることの動詞は、ヘブライ語ではmalach {maw-lakh'}で、取り去りや消し散りなど以外は、塩で調味や洗濯する意味もある。

レビ記/ 02章 13節

穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

その献げ物は、焼き尽くすべきもので、すなわち保存するための塩でなく、神の前に契約は絶つことないという意味を示す。

民数記/ 18章 19節

イスラエルの人々が主にささげる聖なる献納物はすべて、あなたとあなたと共にいる息子たち、娘たちに与える。これは不変の定めである。これは、主の御前にあって、あなたとあなたと共にいるあなたの子孫に対する永遠の塩の契約である。」

ここも塩の契約が言及される。

申命記/ 29章 22節 和合本では23節

また、全土は硫黄と塩で焼けただれ、種は蒔かれず、芽は出ず、草一本生えず、主が激しく怒って覆されたソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムの惨状と同じなので、

命を絶つ裁きの象徴であると見える。

士師記/ 09章 45節

アビメレクは、その日一日中、その町と戦い、これを制圧し、町にいた民を殺し、町を破壊し、塩をまいた。

絶つという呪いの意味もここでみえる。

列王記下/ 02章 20〜21節

彼は、「新しい器を持って来て、それに塩を入れなさい」と命じた。人々が持って来ると、彼は水の源に出かけて行って塩を投げ込み、「主はこう言われる。『わたしはこの水を清めた。もはやここから死も不毛も起こらない』」と言った。

エリシャは塩にて毒のある水を清めた。

歴代誌下/ 13章 05節

イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルを治める王権をとこしえにダビデとその子孫に授けられたことを、あなたたちが知らないはずはない。

ここの塩の契約は、「בְּרִית מֶלַח」というヘブライ語の語彙を直接に用いる。和合本では、塩について、無効化することがないというコメントが本文にあるが、ヘブライ語の原文では、確かにただの塩だ。

ヨブ記/ 06章 06節

味のない物を塩もつけずに食べられようか。玉子の白身に味があろうか。

塩は、味を変わるものだ。

エゼキエル書/ 16章 04節

誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布にくるんでくれる者もいなかった。

塩でこすり、此れは生まれてから行う礼儀の一つみたいで、聖別する意味も含めるかもしれない。

エゼキエル書/ 47章 11節

しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。

口語訳では、

「ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。」

と訳す。

ゼファニヤ書/ 02章 09節

「それゆえ、と/イスラエルの神、万軍の主は言われる。わたしは生きている。モアブは必ずソドムのように/アンモン人はゴモラのようになり/とこしえに荒れ果て、雑草の茂る所/塩のくぼ地となる。わが民の残りの者が彼らの地を奪い取り/国の生き残りの者がそれを受け継ぐ。」

ここで、塩は呪いの意味が持てる。

マルコによる福音書/ 09章 49〜50節

人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

コロサイの信徒への手紙/ 04章 06節

いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

紹介

クリスチャンです。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください