荒野の日常

今回の授業は、イスラエル人が荒野の中に彷徨った日のこと。これは今私たちクリスチャンたちが天国へとたどり着くまでの道と同然、いろいろ似ている。

まずは、彼らは、どうやって移動するのか。彼らは、自分の心のまにまに、好き放題に歩くのではなく、明確に、導きがある。雲は幕屋の上に見えて、それは交差点の信号の如く、民を導いた。そして、銀のラッパの声は、違う形で違う命令を下す。ここで、聖霊は、きっとどんな方法によって、クリスチャンに正しい方向へと導くという印がある。また、団体のリーダーたちも神に託された責任と啓示の上、団体を導くことがある。今日の教会は、監督と長老たちは全教会のことを導くのだろう。

モーセは神を代表し、アロンはモーセの口とみなすがよい。そして民の中の長老たちと役人たちは、神は霊を分かちたまった。これは神の意思で、管理の職を正式にした。まあ、今日の教会にもいろいろ問題があるのね、一部の人は神から特別な恩賜を得て、より弱い人たちを助けることにするだろう。日本で通った韓国人の教会には、筍という組織がある。上下の関係があまりに厳しくて好きにならないが、聖書に例があるとは確かである。

また一人、つまりホバブは、モーセが特別に、一緒に行くと誘った。どうやら、その人は荒野の生活は慣れていたので、案内役になれる。ここで意見が二つある。一つは、モーセは人を頼ったので、神への頼る心が薄くなった。その他は、モーセは謙遜に誘ったのは、その言葉「どうか、わたしたちを見捨てないでください。あなたは、荒れ野のどこに天幕を張ればよいか、よくご存じです。わたしたちの目となってください。 」はなんとか美しく見えて、ホバブも神もそれについて、よしも悪いも言わぬ。個人的な見解は、これは明哲なことである。神の導きをしたがいながら、人間の経験も適当に活用することは別に悪くない。

その反対は、「ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。 」モーセの妻の件は一体どっちで悪いがわからない、せめて神は文句がしなかった。しかし、ミリアムとアロンがそれについて、自分の習慣や好みなどによって、神のことを考えるふりをしながら、神の僕を攻撃した。怖いだろう、神を建前として使い、自分の心の悪意をアピールするもの。神はそのことを、「主は、彼らに対して憤り、去って行かれ」と行った。すぐに裁きがやってきた。この時こそ、モーセは主に助けを呼びかけた。その解決は、隔離である。

最後に残ったのは、「キブロト・ハタアワ」のことである。エジプトから出たイスラエルの人々は、すぐあそこの苦労と重荷を忘れた、しかし、食べたものは忘れなかった。神の恵みみたいなうずらが来ても、神の試練も伴う。欲張った人々は、滅びを招く。今私たちは、世界を後にしたものであるはずなのに、今もなお世界の安楽を愛する。どうするつもりか。神はマナをたまい、また量もたっぷりに保障する。うずらも、足りることは疑いない。ただ、それは足りる、神の恵みは乏しからず、ということを信ずることは、まことに難しいのである。

紹介

クリスチャンです。

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