四十年間
昔イスラエル人は荒野より人を遣わしてカナンの地を伺った。そして12人はみないい土地と確認したが、その中十人はその地の住民は強くて戦い勝てないと判断した。民は多くその十人の結論を従い、モーセに反旗を翻した。神の裁きは、40年をかかって、成年の人々を皆荒野で倒れて死ぬということ。そしてその子供達も同じく、40年その意味のない荒野で流離いになった。
私たちはそのことに何が見えるのだろう。はっきりいうと、40年はひとつのシンボルである。神のこの民族に対する浄化は、40年かかって一代の人々を自然に消える方法で、次世代の人々にも「我が汝らを離たるを知べし」とする。神は一瞬皆殺しができるが、これは目的ではない。神は、次世代の人々を得たがる。彼らは40年の見習いを定められたのである。毎日身の回りはしかばねとなるものがあり、ついに自分の年上の親族も死ぬ。そしてある日に至り、年寄りの知り合いは誰もいないんだ。神はその時、「汝等はこの山を行めぐること旣に久し今よりは北に轉りて進め」と命じた。そう、神はこの民を滅ぼすため出なく、かれらを進ませるためにこの40年間を使った。その前の世代は死なないと、次世代は約束の地に入れずにただ荒野に行き巡るしかない。
個人的な解釈としては、人は霊、魂、体によって組織されていた。魂がまだ強いうちに霊はなかなか自由に動けない、と先人たちはそう伝えておった。もちろんそれは問題ない解釈である。でも、この昔のことは、今確実に我らの身に発生しているかもしれない。それは、忍耐の教えである。
40年というと普通の人間にとっては半分過ぎた寿命である。あの時のイスラエル人の子供たちも、一番良い時は皆荒野の流離った。人生は、年寄りたちのせいで滅茶苦茶に成られて、神の裁きを聞いた時に彼らは何を考えたのでしょうか。それは我らはまだ想像もつかせないことでしょう。
普段の問題は皆40年かかって解決できるのだろう。要は全ての迷惑の源であるものはその時を経て死ぬのだろう。あらゆる問題には死によって解けないことなし。体の死は、そのものの終わりで、魂の死は、その迷惑のおしまいである。人は罪のあるもの、だから十字架は人の定められたおしまいである、これは霊と魂と体全部死ぬことなり。でもイエスキリストによって、我らの代わりに十字架につけられたゆえ、彼を信ずるものはみな霊が死より蘇る。その後、十字架は信徒の魂に対する仕事が始まり、その果ては魂の降伏である。魂の死とも言える、魂は霊の管制を受ける状態という。達成率が低いが、魂と霊の戦いに霊が強ければ強いほど、迷惑の減ることができる。その40年も、まさにその魂と霊の戦いの象徴である。
嗚呼、我々はまた、忍耐の道を知るべし。
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