世の終わりだろう

今日は主日学校の当番で、子供たちと1日過ごした。かわいいとは心から感じてなく、そのかわりに、元気だなと嘆くしかない。なぜ子供たちはそこまで遊べるのか。そしてただの遊びである。わたしは子供のころ、あんまりそこまで遊ばない。慣れない原因になるかもしれない。とにかく疲れた。大変な奉仕だね、まことに。

人は幼い頃から悪念を持っている。伝統を持つクリスチャンの家庭に育ってきた子らはちょっと様子がいいが、クリスチャンとして教育されて不十分な子らは、はっきり態度とは違う。言葉遣いは世的な程度より悪い例はたくさんで、人に迷惑をかけても自覚がなく、神のみまえに敬う態度もわからん。これは、多分、主日学校で教育をすることが治らない件だろう。その責任は、間違いなく、親の身にあり。

親として、自分の生き方は子供に見世物としてある。戦争、飢饉、災厄、それは家庭の中にみえてくる。世の終わりだろうとつぶやいても、これは理由として悲しい。二千年まえ、すでに世の終わりと言っただろう。今更、知らぬとは言えん。いい家庭は、いい子を育つ可能性が高い。

いい家庭はいい婚姻によって構築されている。しかし、今の時代は、利益や欲望や傲慢やいろいろ、愛は別に必要なものでなくなる。そんな背景のした、信仰を維持することも難しい。たくさんの人は自分の婚姻で、または子供の婚姻で、自分の本音を出した。霊的なマスクを取り除かれば、いかに醜い姿なんであろうと。

まあ、今他人事としてよく言えるが、自分に臨む時ならどうするもわからん。難しいね、生きることは。だからパウロはそんなことを避けた。実に怖いもんだ。世の終わりに、またなにかでてくるのか。もう、すでにやばいだ。

紹介

クリスチャンです。

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