二つの木について

主日学校で担任した課程である。

本題は、いい木にいい果実、悪い木に悪い果実、ということで、極めて簡単だが、初陣として経験が不足なんだろう。そして、ちょっと系統的に、木が果実を実るということについて話ししてみた。

まずは木、勿論人を示す。そして木が本質で違うごとく、人には区別がある。実りれる木もあれば、果実ができない木もある。イエスはあるたとえで、麦と毒麦が紹介してくれた。農家といては、有益な麦は目的だが、混雑する毒麦が利用する価値ない上、栄養も使い、毒もある。しかし、イエスはそれが悪魔のわざとおっしゃったうえ、世の終わりまで分けたりはしない方針を明示された。今日の我らは命あるものとして、キリストから授けた救いにより死にたる状態から生き物となった。しかし、その間に、麦となったか、ただ悪魔のわざで毒麦となったか、極めて大事なこと。クリスチャンとみなされても、バブティスマを受けても、実に命がないなら、永久の命がないなら、地獄の火は避けない。

ターゲットの命がある人となったら、実りれる木のようである。そしてその木は本当に実るかどうかは問題である。夏に果実のない無花果は呪われ枯れた。園に三年ほど待たされずっと実りはしない木は鉞が待つ。救われたものとして、せめて悔い改めの果実が実るべし。そして、聖霊の実りをよくイエスの命で実ること。

しかし、実る木の間に、荊棘と葡萄の区別がある。どんな木であるかはその実りによってみえる。羊の皮を被る狼は、声出す瞬間で暴露るだろう。それは偽預言者をしめす。私たちは、自ら聖霊の実りをできるように祈りつつ生きようとしながら、他のものの偽装を看破することも必要だ。

紹介

クリスチャンです。

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