ナアマンが清められる件について

福音の説教でよく出るナアマンが清められる件について、ちょっと話ししたい。

エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」 (列王記下/ 05章 10~13節)

第一手記

闇に光

ナアマンはアラムの将軍で、皮膚病を患った。不治な病気で、そのうち死ぬ覚悟を持ったと思うが、一つの希望は絶望するはずの方より現れた。ナアマンの家に一人のイスラエルの奴隷少女は、イスラエルの預言者に癒しがあると伝えた。

探すより探された

絶望の闇に輝いた希望の光だった。ナアマンは王に申し込み、政治的にイスラエルの政府にその癒しの要求を照会した。しかし、癒しは王権にはいなかった。エリシャは、「彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」ということで、求められる方だったものの、自ら求める方に姿を示した。ナアマンはもともと「サマリアの預言者」に尋ねたがり、そこは都合がよかった。

癒せと洗え

ナアマンが求めたのは、癒されることだった。預言者として、神の使者として、自分の病気を癒すことはある儀式と祈りによりできるだろう。それは癒しだ。勿論神を相手として、ただではなく、ちゃんと礼儀持ったとナアマンが思っただろう。お土産持ってきたし、手紙とかも用意した。しかし、神は本当に、救えるゆえに救うべきなのか。神が預言者を通して、また使いの者により、「身を洗え」と命じた。その場面はまさに、神は「癒せ」と叫んでいるものに、「洗え」と静かに答えて命ずる。また、ただ一度の洗いは足りない、七度だ。

第二手記

人は皆、様々な救いを求める。それは広い道に皆それぞれの門に向かい入る場面だ。イエスは「狭い道」によって「狭い門」に入るといった。そう、連れられて入りではなく、自ら入ることだ。イエスはその方法を教えていたが、人の代わりにその入りをしない。救い道は教えられるが、歩む方こそ救われる。

それは旧約も新約も同じ、人間は何もしないなら、救われることができる。旧約はバプテスマのヨハネを結末として、神の掟を守り自分の罪を悔い改めること。新約なら、旧約のすべてを、イエスを信じることによって受け入れる。それはキリストへの信仰の救い道。どちらでも、人の望むように倒れたままで救われるわけがない。

救いを望んだら、変わりを求めたら、まず心を用意し、「大変なこと」を代償とする覚悟を持たなければならない。そして、示した道を従い歩み、その信仰は、神のみ前に価値がある。神が与えるものは、他なしその信仰である。

紹介

クリスチャンです。

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