アビヤの演説の裏
イスラエルの統一王国時代は最後の王なるソロモンの死をもってその終わりをたどり着いた。その国は分裂し、南のユダと北のイスラエルとなった。その引き金はその後継の王たるレハブアムの暴政だった。またその根本的な原因は、ソロモンの罪と民の犯行と聖書にて明らかに述べた。レハブアムの時代で、ソロモン時代の都までかつての同盟国のエジプトに占領されて略奪された。ソロモンの平和になれた民にとっては、とんでもない事態になってしまった。その後アビヤがユダの王となった。アビヤはよくヤロブアムと戦った。歴代誌下の第十三章には、アビヤの有名な演説を記録した。その演説は主に次のことを述べた。
- ダビデ家、つまり南の国ユダの王家は神と「塩の契約」を持つ永久のイスラエル王家であることを声明する。
- ヤロブアムを始め、北の軍勢を外人より、反逆者と扱う。
- ヤロブアムの金の子牛の件、祭司の追放と別立など、信仰上の不法を非難する。
- 南は正しい信仰を持ち、律法を守っている。
- 最後の結論として、神を南の方の味方とし、北は引き続き回心しないと神の敵となることを警告する。
その後の戦いはアビヤの勝利で終わりを告げた。歴代誌下には、アビヤに不利な言葉を残らない。
列王記上ではレハブアムの後継ぐものはアビヤムと記され、明確で「彼もまた父がさきに犯したすべての罪を犯し、その心も父祖ダビデの心のようには、自分の神、主と一つではなかった。」と。それは、第15章第3節である。その節の後は、ダビデは如何なる神に好かれるものであったと述べ、両者の格差を対比する目的はよく見える。アビヤムの動きの記録はその悪行以外、ヤロブアムとの戦いだけだった。列王記の角度から見ると、その王は歴史の中にて記録する価値のあるところも少ない、ダビデの子孫でも残念な王ですぎない。
しかし、なぜ同じ聖書の中に、同一人物の色は違うのだろうか。アビヤは演説をして、そして神は南の軍を助けた。本当に、アビヤとユダは正しく良い方だろうか。
もちろん、答えは否だ。神は自分の判断で動く、人の演説のために動くではない。人も演説だけで神に受け入れられることはない。
今日の教会で、アビヤのに似るものはないか。私たちは真理のために戦う、その「聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦う」。しかし、見た目は似て、真理の戦いは人間の権力闘争と巻き込まれることも例が多い。真理の為の戦いは、愛をもって当面に責めることから始まり、隠しもなく天と地との間に堂々と主張する。真理のためではなく、人間の肉体の虐めのようなことで、「堪忍し抜いたが、今はもう仕方なく反撃する」など、アビヤの演説にすぎない。アビヤは本当に神に信仰を強く抱くものならば、祭司陣を頼り人に呼びかけることより、神に祈る方がいい。その演説は、政治的に賢いかもしれない。しかし、ちょっと立場の違い作者となれば、それは何の価値もなく、その戦も記録すらなかった。
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