昔からの地境
昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑を侵してはならない。 箴言23章10節
前言
団契ということはなんであろう。霊的に言えば、これはイエスのみ言葉、つまり「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、我はその中にいるのである」のどおり、一番純粋な実行である。私たちはいつも自分を弱いものと自称しているが、自分の様子と景況と関係なく、イエスの言葉を聞き信じていることは、私たち信仰の地境である。私は今日、短い間に、地境というテーマで、ちょっと話したい。
神の御心
聖書には地境を重視している。信仰の時代はアブラムから始まった。その信仰の巨人たるアブラムに対し、神は授かる地域をはっきりと示した。彼の信仰のゆえに、罪だらけの原住民を追い出して、その土地を彼のものにした。それが実現されていない間に、サラは死んでいた。その時、彼女の墓のために、彼はその地の人と契約をとって、土地を買った。その土地は、彼のものになった。しかし、それはただ、望まれる事柄の徴しである。その後、モーセの律法には、地境を移してはならないことを定め、またそれを侵したものに呪いを設定した。また、土地は神のもので、買い戻す権利を与えられている。
神は秩序のある宇宙を創ったが、創造物よりエントロピーが増えた。地境は、神が設定する秩序を示している。
守る覚悟
しかし、その昔からの地境を守ることは容易ではなく、命かけることになるかもしれない。私たちはナボトのことを知っているはずである。先祖から伝われたブドウ畑はどうなっても、譲ることはない。彼はそのために殺されていたが、アハブもその報いを受けた。ナボトはアハブが報われることを見ていなかった。しかし、神はそれを記念した。私たちは報いを期待するものにならず、神の御心を満足することに関心しよう。
創造物の本質はエントロピーを増やすになれる。神に従えば、この世に苦しみを味わうことも当然だ。しかし、神は喜ぶ。
今私たちの地境を警戒せよ
今の時代は、地境ということは土地に指すことにならず、いろんなことに言える。私たちはよく考えるのは、信仰である。個人的に時間が過ごし色々変わっているが、心のなか、霊のなか、その信仰が変わりのないように。この世の風がいかに吹くにもかかわらず、イエスの名によって生きる、その名のために光栄ある死も避けぬ。それは信仰である。私たちの信仰の隣ではいつも不信仰がある。ちょっと楽にしたら、その地境が移される。ちょっと数字を踊ったら、その地境を移る。まあ色々な状況があって、皆それぞれであろう。
この時代は世の終わりに見える。これで、エントロピーの増えるも早い。信仰はその地境である。
信仰の地境
しかし、信仰ということ一体なんだろう。その地境はいったいどこまでである。昔の信仰は今の信仰は同じだろうか。新約に載っていた信仰と教会の原型に、私たちのが同じだろうか。僕から王侯へ、権力を振り舞う。徴から本番へ、神より殿を大事にする。聖書しか法律のない教会に色々な偉いものの言葉を掟とし、人間の伝統を守り、聖書に書いたことは見逃される。私たちはそんなことを見ているのか。また、キリストの弟子とみえるものは、ほかのクリスチャンを迫害し、その理由は霊的なものを飾って、実は自らの欲にすぎない。そんなことを出会ったら、教会の地境が移される。
聖書と聖霊は唯一の地境。最高の導きである聖霊は二言なく、聖書を変更することがない。
団契と教会の地境
団契の地境はどこにある。高校時代にも、大学時代にも、それは組織とみなすことがないように。残念だが、もうそんな形になっちゃう、団契とその後ろの教会は従属という関係を持つに至ることは、正しいことではない。むしろ、純粋な団契は、教会を超えて、ただ信仰の「七つの一つ」を基づき、お互いに交われるクリスチャンたちである。ゆえに、団契ということは実際、信仰以外の制限がない。教会は地理的に制限されていると言えば、団契はそれも超えてしまう。そう、みな信仰があれば、団契になる。しかし、信仰が同じにもかかわらず、ほかの微妙な理由で交われりを拒否することは、実にキリストの体を切り裂くことにしている。
聖書にある「七つの一つ」という原則はその地境を提示する。
人生の地境
また、人生にも地境がある。神は皆に対する一番いいものを用意した。これを納得すれるには信仰が必要がある。生きる年月、住むところ、色々神は定めてくれた。せいぜい頑張るが良い。頑張れることも神が知ってしまう。今後の数年間、満足してるか不満の中でいるか、神の主権を認識するがよい。無理やり欲張りしても、神の定めを超えることはない。よいではないか、ヤコブの手紙に、主の御心であれば、という態度を我らに提示してくれた。勉強できるものが、それを従うがよい。
人生は神の手にある。我は明日が知らないが、神は知ると信じる。
奉仕の地境
クリスチャンだから奉仕することがあるほうがいい。しかし、奉仕もその地境がある。祭司、預言者、そして王、それは旧約時代にあった三つの奉仕である。ユダの王ウジヤは、聖殿に入り祭司の仕事をやってみた瞬間は、神より罰を受けた。それは、悲しいことだろう。王は世俗的な奉仕を示す。神の定めたもの以外、誰も奉仕の資格はない。人からみて祭司たるものでも、罪があれば聖所に入った途端神に撃ち殺される。そして預言者は、神の言葉以外、何も神の名によって話してはならない。その奉仕の限界が超えると、いいことにはなれない。アモス、イザヤ、エゼキエルなど、神に召される人がいた。神に召されているものこそ、奉仕をするができる。じゃないと、自分の意思で「炭火」を使ったら、奉仕より冒涜になる。
私たちは奉仕について、相手神であることをよく覚え、自分のものを巻き込まれないように注意すべし。
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