題知らず

明日、帝国第三高校のクリスチャン生徒団契に遣われる予定である。故にちょっと講義を。

「元始に神天地を創造したまへり。」 創世記第1章第1節

この聖句は聖書冒頭の言葉で、神の創造されたものすべての元始である。多分主日学校に通う子供は普通その一節と「神世を愛し」とを必ず暗記してしまう。皆馴染んだみ言葉は、実は今でもその光を私たちを照らしてくれるのだろう。

元始。我々の聖書解釈伝統にて、現在存在している世界は作り直された世界で、その前の世界は、まさにその元始から始まった。元始とは一体なんだろう。簡単にいうと、時間と空間の始まりといえばよいなので、時間と空間があれば、世界そのものが創立される。御使という存在について、「御使はみな事へまつる靈にして、救を嗣がんとする者のために職を執るべく遣されたる者にあらずや」とヘブル書第1章第14節で、その世界にある目的のために作られる存在である。エペソ人への書第1章のはじめに使徒パウロが、「世の創の前より我等をキリストの中に選び」という言葉が残されている。我々は予定されたものたちである。「御意のままにイエス・キリストにをもてとなさんことをへり」、とそのいかに偉い計画が見えてくる。「じめりたまふ御子らせんとじめへり。これくの兄弟のうちに、御子嫡子たらせんがなり。そのじめめたるし、したるとし、としたるには光榮させふ。」と、ロマ人への書 第8章第29節と第30節はそれを繰り返した。その世界は神の目的のために作られたもの、神はその世界について何もかも知る。神はこの世界のものでなく、この世界は神のものである。まさにその神、全知全能の方、世界を超える存在は、我々を知るだけでなく、我々を彼の子にすると図られる。見よ、同じ墨、同じ筆、同じ紙、ただ書き手が違って、その作品の価値が変わる。材料は同じでも、外力によって、結果は違う。もちろん材料の差別は変わられない。それらしく、我らは土、神はその匠である。

我々は世界にとどまり、神は世界を超える。これは現実である。現実は見える部分があれば見えない部分もある。世界は残酷で、神のシナリオにて、神を拒むものである悪魔がその世界の王になった。その世界の王は、神に敵対して、人間を苦しむ。神の民も、その中に試されている。でも、一番怖いものは、未来への不確かさである。高校生は苦しむ勉強をしては、受験のためだ。受験の後ろは、別に何も約束されていない。大学は良い方がいい、というのは確かなり。でも、本当にいい大学を経て、またなにをできる。個人の経歴から見れば、ただ誇りと妬みが生み出す。イエスは、空のスズメを例として、別に憂いを持っても何の益も見えない、ただ心を苦しむことと示した。クリスチャンの家でも、世界に根深くすることは多い、世のいいことを絶えなく欲するものがたくさん。我々は覚えるべきことは、全ては神の手にある。人間の努力はどこまで有効なのか。皆試験の専門家で、試験は実力だけのことではないとよく知るだろう。私は神を畏れるものはきっと試験に成功できると言わない。成功も失敗もこの世界がつけるタグでいる。神には、失敗はない。イエスが世界の人間としている時、世の人によって殺されたことは、失敗らしい成功である。私たちは万国とその栄華のためにその世界の王にひれ伏すと、本当にそれをえるかもしれないが、成功みたいな失敗である。神を畏れることは、神の御心を知り求めて、それを従うことを含む。だから、神の主権を知るものは、何も恐れずに、神による喜びが溢れるだろう。

紹介

クリスチャンです。

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